こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。
十六世紀より続いた皇帝(ツァーリ)による専横政治によって、ロシアでは上流貴族(ブルジョワ)による封建制と、地主貴族による農奴制が基盤となった社会が続いていました。国家は農奴たちを負担から逃がさないように罰則で土地に縛り付け、法的な土地緊縛を確立させていました。結婚の自由もなく、裁判権は領主に委ねられ、罰則は領主によって執行されるという、まさに奴隷的な処遇でした。また上流貴族(ブルジョワ)は、専横政治そのものに不満を抱き、引き上げられ続ける税徴収などに対して皇帝に反抗する一方、封建的な貴族社会を維持して資本を肥やすことに熱心でした。皇帝と貴族は関係悪化が進みましたが、大帝ピョートル一世によってこの関係は一時的に緩和されました。大帝は、西欧文化や哲学、またはそれによって構築した政治制度の導入によって上流貴族の抱えていた税負担の不満を解消し、(専横政治における)政治官僚制度を整えて国軍を強化しました。そしてロシアは、バルト海と黒海を支配下に置いて交易ルートを確保したことでヨーロッパ列強国の一つとなるまでに成長し、この十八世紀前半の大北方戦争の勝利によって、ロシア帝国と改めて名乗り、世界的にも力を持つ大国となりました。
堅固な列強国となったロシアでしたが、フランスで起こった自由を求める革命によって大きな政治的動揺が生まれます。破竹の勢いでヨーロッパを駆け抜けるナポレオン軍はロシアにまで侵攻します。軍組織を強靭に整えていたロシアはその侵攻を跳ね返し、防衛するだけでなく引き返すナポレオン軍を追随していきました。血気盛んなロシアの若い将校たちはフランスまで辿り着き、蛮勇を振るおうと勇み降り立ちます。しかしそこで待ち受けていたのは「自由と平等」を掲げた新たな思想の社会でした。イギリスで起こった産業革命の影響や、自由を求める人々の思想に、将校たちの若い感性は強く刺激されて、後進的なロシアの現状と比較したことで変革の眼を開きました。十八世紀末の当時のロシアでは、ウィーン体制(ヨーロッパ列強国が封建主義を推進して専横政治を各国で再度広めようとする体制)に賛同したアレクサンドル一世によって、より一層のツァーリズム(皇帝独裁政治)が進められていました。祖国へと戻った若き将校たちは皇帝による自由主義を弾圧するような圧政に、フランスの「自由・平等・平和」を理念とした反抗心が芽生えていきます。この反抗心はやがて強い結束を生み出し、綱領を掲げた正式な組織を形成して、1825年に皇帝に対して蜂起します。この自由主義を求めた将校たちの反抗を「デカブリストの反乱」と呼びます。
蜂起したのは1825年12月14日で、デカブリストは「十二月党員」の意味を持ちます。この日に皇帝アレクサンドル一世の急逝を受けて、新帝ニコライ一世即位の宣誓式が執り行われましたが、そこにデカブリストたちは行軍し、自由主義を掲げて軍事的反乱を起こしました。ニコライは流血を避けるように説得を試みましたが、説得に向かった勅使を銃撃されたことで武力行使を指示して反乱軍を鎮静化させました。僅か一日の出来事ではありましたが、ニコライ一世は蜂起に至った思想と行動の危険性を鑑みて、首謀者たちを絞首刑に処しました。反乱軍の指揮を執ったパーヴェル・ペステリ大佐、勅使を狙撃したピョートル・カホフスキー、詩人コンドラチイ・ルイレーエフ、連隊を指揮したセルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストル、最年少の急進派ミハイル・ペストゥージェフ=リューミンの五人は首謀者とされ処刑、シベリアや極東へ送られたのが百六名、有罪とされた人々は五百人以上にも及びました。デカブリストの反乱はロシアだけの特異な事件ではなく、ヨーロッパ全土がウィーン体制による専横政治に反発し、ドイツの学生同盟ブルシェンシャフト、スペインの立憲革命などの運動と同様に、これは民衆の自由を守るための戦いであるとして、ロシアの民衆もまた、この反乱から多くの自由主義の意識を感じ取ることになりました。そして民衆に生まれた皇帝への反発意思は、やがて来るロシア革命へと繋がっていきます。
反乱を鎮圧された活動的中心人物たちは、前述のようにシベリアや極東へと流されました。このなかには妻を持つ将校も多くあり、強制的に引き離されることになりました。残された妻たちは夫を想うがあまり、上流社会の身を投げ出して身体一つで夫の送られたシベリアへと向かいます。ニコライ一世もこのような妻たちの行動を認め、北部へ駆けることを許可しましたが、民衆の涙を誘うこのような行動が反ツァーリズムの意識を助長させるという恐れを感じ、途中から引き返させるように働きかけました。このままシベリアへ向かうならば、上流階級の身分、相続されるべき財産、持ち得るべき名誉の尽くを失うという処分を突き付けて署名を迫ります。しかし、妻たちはそのような処分に屈することなく署名をして、夫が凍えているシベリアの地へと駆っていきました。この愛ゆえの行動をもとに、詩人ニコライ・アレクセーヴィチ・ネクラーソフ(1821-1878)が書き上げた叙事詩が本作『デカブリストの妻』です。
ネクラーソフは、民衆の抱く苦しみや受ける理不尽な扱いなどを「現実的に」見つめて、そこに抒情と諷刺を乗せて熱量の籠った詩を作り上げました。彼が生んだ多くの悲しみを含んだ作品は、アレクサンドル・プーシキンとならんで後世のロシア詩へ強い影響を与え続けています。また特筆すべきは、改革後における当時の虐げられていた農奴を始めとする労働者階級の真の生活を、詩において初めて描いた作家であるという点です。民衆の目線から見たロシアという国の実情と困苦を、希望的に抱かれる自由主義という思想を照らし合わせて書き上げた作品を多く残しています。
デカブリストを称賛する思想や態度は、当然ながら帝政ロシアにおいては認められませんでした。彼らが反乱を起こした動機は、根本的なツァーリズムへの批判と農奴制の否定であったため、デカブリストを擁護するものは反逆者としての烙印を押されました。一切の名誉を剥奪して財産を没収するという強行的な処置も、賛同者に対して少なからず行われました。五人の首謀者と交際をしていたプーシキンまでも、帝政の監視下に置かれ、他の文学作品も厳しい検閲を受けていました。しかし時を経ることでツァーリズムの強行も弱まり、政府と貴族の関係性が鈍色に交わりだすと、ロシア革命の火種となる思想が燻り始め、ロシアの自由主義への期待が水面下で膨らんでいきます。革命という明確な目的こそ見えてはいませんでしたが、一つの機運の芽生えとして民衆の意識に広がっていきます。このような社会の態度をネクラーソフは持ち前の観察眼で察知し、当時に衝撃的を与えた自由主義思想によるデカブリストの反乱を今こそ思い起こすべきだと考え、事件の四十七年後の1872年に本作を発表しました。
彼は人間が抱く苦しみや怒り、そして運命に抗おうとする愛と勇気を社会に向けて打ち出しました。題材となった二人の夫人は、激しい感情がとめどなく背中を押すように、一心不乱に夫が流されたシベリアへと突き進みます。地位も名誉も財産も全てを投げ捨てて、ただ夫に一目会いたいという一心で祈りながら向かいます。ここにはロシア人の持つ精神的な美しさと愛情の深さが込められ、相手への理解と心の絆を信じる強さが描かれています。辿り着き、出会えたとしても何が出来るわけでもなく、共に残りの生涯を過ごすことが出来るわけでもありません。彼女たちを突き動かした望みは、たとえ底のない悲しみであっても、再会するという幸福のなかで悲しみたいという切なく強い感情から生まれたものでした。実に人間的で、実に女性的な愛が描かれていると言え、「デカブリストの妻」という題名に込められたネクラーソフの意図が含まれていることが窺えます。また、作中では、長い旅の途中で現実の夢や空想に浸りながら、現実との区別がつかなくなって再び眠りに落ちるといった「夢と現実の隣接描写」を用いて描かれています。ここには夫人たちの、怒り、悲しみ、憂い、恐怖、希望といった激しい精神状態が表現されており、一縷の望みを辿るような心的緊張感を助長させる効果を生み出しています。
旅の途中でも徒刑地でも
いつでも 辛い苦しい時には
おお 民衆よ! わたしは 力にあまる重荷を
けな氣にも お身といっしょにはこんだのだ。
どんなにたくさんのみじめさが
おのが身にふりかかっていようとも
お身はひとの悲しみをわけもった
そして わたしが涙流そうとする場では
お身は もう とっくに泣いていた!……
お身はふしあわせな者を愛す
激烈な愛とその勇気を描いた本作ですが、作中ではネクラーソフが併せて込めたデカブリストたちの「祖国を思う身を賭した反乱」の気高さや、反乱がロシアの民衆に与えた「自由主義という感動」が随所に滲み出ています。本作発表の三十三年後に「血の日曜日」が起こり、民衆蜂起によるロシア革命が始まります。ネクラーソフの民衆を思う心が、革命への一歩を担ったと、そう思えてなりません。非常に激しく美しい気高さを感じることができる本作『デカブリストの妻』。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。